対馬丸撃沈82年 国策の犠牲を問い続ける 社説
対馬丸撃沈82年 国策の犠牲を問い続ける

国が強行した無謀な疎開が生んだ犠牲を繰り返してはならない。学童の命を奪った悲劇を語り継ぎ、国策の責任を問い続ける必要がある。

学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かっていた対馬丸が鹿児島県トカラ列島沖で米潜水艦に撃沈されてから82年の日を迎えた。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人を数える。

疎開の主目的は戦時態勢の構築

対馬丸事件を捉え返すとき、まず問われなければならないのは、学童や一般住民の疎開を推し進めた国の狙いである。

政府は1944年7月7日、南西諸島の女性やお年寄り、子どもたち約10万人を九州と台湾に疎開させることを閣議決定した。日本軍の作戦遂行の支障となる県民を立ち退かせ、食料を確保することが目的であった。

44年7月19日に沖縄県が国民学校長らに発した「学童集団疎開準備ニ関スル件」も、学童疎開の目的に「県内食糧事情ノ調節」や「県内防衛態勢ノ確立強化」を挙げている。疎開は人命保護の観点より戦時態勢の構築に主目的があったのである。

軍徴用船としての対馬丸

対馬丸をはじめとする学童・一般疎開が戦況悪化で制海権が失われた中で強行された事実も忘れてはならない。

国や軍の指示で南洋などからの引き揚げや疎開をする県民を乗せ、沈められた沖縄関連の戦時撃沈船舶は26隻とされる。そのうち17隻は対馬丸の前に撃沈されている。対馬丸の出港も無謀であったことは明らかだ。

さらには対馬丸は民間船を日本軍が借り上げた軍徴用船であることも見逃せない。学童らを乗せて九州に向かう前、対馬丸は沖縄戦を戦った62師団の輸送に従事している。日本軍の作戦で関わってきた貨物船であり、米軍はその動きを察知していた。

国策の犠牲としての責任

「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)のデータによると、日本軍が徴用し、米軍の攻撃などで沈められた貨客船やタンカーなど2618隻の51%に当たる1344隻の撃沈時期は、1944年8月から45年8月の1年間に集中している。

戦況が悪化する中で民間船を徴用し、軍作戦に従事させたことによる犠牲だ。対馬丸もその範ちゅうに含まれよう。

戦争遂行、戦時態勢の構築のため軍徴用船となった対馬丸を用いた学童疎開が強行され、多大な犠牲を生んだ。紛れもなく国策の犠牲であり、今日でも国の責任は問われなければならない。

有事の避難計画に問われる実現性

国民保護法に基づき、有事の際、宮古島市など5市町村住民と観光客ら12万人を九州・山口に搬送する避難計画の実現性に疑問符が付いている。短期間で住民を輸送する船舶や航空機を確保し輸送することが可能なのか。有事の際の国による船員や乗務員の任用には強い抵抗も予想される。

そもそも何のための住民避難なのか。82年前の経験に基づき、今日の国の動きを注意深く監視する必要がある。宮古、八重山、与那国の島々が戦場となることを前提とした避難計画は、対馬丸撃沈に照らしても厳しく問われるべきだ。