94歳の又吉(旧姓・国吉)正子さんは、今も低空を飛ぶ飛行機の音を聞くと身をかがめてしまう。十・十空襲や対馬丸事件、やんばるでの疎開生活など、沖縄戦を少女時代に体験した。「戦争は絶対にしてはいけない」。長年胸にしまい続けてきた体験談を語り始めたのは90代になってからだ。未来へ平和をつなぐため、自身の体験を語り継いでいる。
戦争に翻弄された少女時代
昭和6年11月5日、那覇市旭町で生まれた又吉さんは、卸売りと小売りを営む商家の長女として育った。父の真誓さんは礼儀や作法に厳しく、幼い頃から弟や妹の面倒を見ながら成長した。県立第二高等女学校1年生だった昭和19年10月10日、米軍艦載機の大編隊が那覇を襲い、日中の波状攻撃で那覇の街全域が焼け野原となった。「父が『ウージ畑に飛び込め!』と叫ばなければ、家族全員やられていました」と振り返る。避難先へ向かう途中、米軍機の機銃掃射を受け、操縦席の若いパイロットの顔まで見えたという。80年以上たった今も鮮明に記憶が残っている。
その2カ月前には、3歳下の弟・真栄さんが学童疎開船・対馬丸に乗船。「国吉家の長男だから、生き残って家を残しなさい」と、軍国少女だった正子さん自身が弟の背中を押した。甘えん坊だった弟は両親と離れることを嫌がったが、友人たちも疎開することを知り、最後は船へ向かった。「港は見送りに来た多くの人で混雑し、顔なんて見えませんでした。ただ父や母と並んで『行ってらっしゃい』と手を振ることしかできなかった」。やがて対馬丸撃沈の知らせが届き、真栄さんが帰ることはなかった。
飢えの果ての決断
一家は大宜味村へ疎開したが、食べ物は底をつき、極限の飢えに直面した。父は「山を越えて南部へ行こう」と家族を連れ出すが、途中で出会った日本兵から「南部には新しく米軍基地ができ、途中はもう通れない。戻りなさい」と告げられる。行き場を失った父は家族を呼び寄せ、「もう食べるものもない。向こうには真栄もいる。みんなで行こう」と空を指さした。その瞬間、正子さんは「家族みんなで死のうと言っている」と悟ったという。しかし軍国教育を信じていた13歳の正子さんは、「今に神風が吹いて、友軍が必ず助けに来る。この戦争は絶対に負けない!」と父を励ました。その言葉に母も「正子もそう言うんだから、もう少し頑張りましょう」と続き、一家は静かに山を引き返した。
その後もソテツで飢えをしのぐ日々が続き、やがて住んでいた小屋が米軍の火炎放射器で焼き払われ、捕虜となった。移送中、幼い妹へ米兵が差し出したチョコレートを「毒が入っている」と思い、一度は止めたが、兵士は自ら食べて安全であることを示した。「鬼畜米英と教えられていたけれど、悪い人ばかりではないんだと思いました」と語る。
戦争を語り継ぐ
終戦後は、大宜味村喜如嘉での収容所生活を経て、南部へ戻った。那覇に戻ってからは首里高校へ進学。東京の短大で音楽を学んだ後、沖縄へ戻り家庭を築いた。しかし長い間、自ら戦争のことを語ることはなかったという。「私たちは北部へ疎開しましたが、南部で地上戦を経験した人たちは、もっと悲惨な思いをしていた。その人たちの前では、戦争の話はできませんでした」。戦争体験を語り始めたのは90代になってから。娘から「もう恥ずかしがる年じゃないでしょう。知っている人が話さないと伝わらない」と背中を押されたことがきっかけだった。
現在は娘や孫、ひ孫に囲まれた暮らしを楽しんでいる。今年は念願だった3人の孫と内地への旅行にも出掛け、「元気なうちに思い出ができた」と笑顔を見せる。長生きの秘訣を尋ねると、「適当にこき使われること」と笑う正子さん。しかし最後には真剣な表情でこう語った。「戦争は、人を殺さなければ自分が殺される世界。本当にやってはいけません。ひ孫たちの時代にも、絶対に戦争をしてほしくない」。